教えのやさしい解説

大白法 595号
 
折伏実践(しゃくぶくじっせん)
折伏の意義と目的
 折伏とは全世界の人々を災難と苦悩の人生から救うところの慈悲の行為です。
 この世の災難の根本原因は、人々が邪宗邪義を信じて、正しい仏法を誹謗(ひぼう)することにあります。これを解決するには『立正安国論』に、
 「汝(なんじ)早く信仰の寸心(すんしん)を改めて速(すみ)やかに実乗の一善に帰(き)せよ」(御書 二五〇n)
 「須(すべから)く国中の謗法を断(た)つべし」(同 二四七n)
と勧誡(かんかい)されているように、謗法が国土や人心(じんしん)を破壊(はかい)する根本原因であることを教え、人々を法華真実の正法(しょうぼう)に帰依(きえ)せしめなければなりません。これが立正安国の原理です。
 日寛(にちかん)上人は「立正」の二字について、
 「立正の両字は三箇(さんか)の秘法を含(ふく)むなり」 (日寛上人御書文段 六n)
と釈(しゃく)されているように、御本仏(ごほんぶつ)日蓮大聖人が建立された三大秘法総在(そうざい)の本門戒壇(かいだん)の大御本尊を唯一(ゆいいつ)無上(むじょう)の正法と立て、弘通(ぐづう)していくことが『立正安国論』の正意(しょうい)と拝(はい)すべきです。
 では、なぜ大御本尊に帰依しない人々が増えると災難が現れるのでしょうか。
 それは正法誹謗の結果として、五濁(ごじょく)すなわち「見濁(けんじょく)」(思想の乱(みだ)れ)・「煩悩(ぼんのう)濁」(煩悩が盛(さか)んになる)・「衆生濁」(社会全般の乱れ)・「命(みょう)濁」(寿命が短くなること)・「劫(こう)濁」(前の四濁(しじょく)が因となって飢饉(ききん)・天災・疫病(えきびょう)・戦争などが起こる不幸な時代)が強盛(ごうじょう)になるからなのです。御書には五濁の中でも謗法の邪宗邪義による人心の乱れ、すなわち「衆生濁」「見濁」が災難の原因になっていると御教示(ごきょうじ)されています。
 ですから、このような五濁乱漫(らんまん)の濁世(じょくせ)を根本的に浄化(じょうか)する具体的な実践こそが大切であり、それが折伏なのです。
 『諸法(しょほう)実相抄』の、
 「日蓮と同意(どうい)ならば地涌(じゆ)の菩薩たらんか」 (御書 六六六n)
 「地涌の菩薩の出現に非(あら)ずんば唱へがたき題目なり」(同)
との仰せを拝するならば、私たちは折伏弘通の大任(たいにん)を受けた地涌の菩薩と言えましょう。
 その使命(しめい)は、
 「二人(ににん)三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし」(同)
とお示しのように、まさに「一人が一人の折伏」を実践することにあるのです。
 大聖人は、一切衆生を無間(むけん)地獄の苦(く)から救うところの三大秘法を御建立され、
 「母の赤子の口に乳を入れんとはげむ」(同 一五三九n)
ように、末法の一切衆生に南無妙法蓮華経の大良薬(だいりょうやく)を与えんとの大慈悲の御化導(ごけどう)を示されました。これに浴(よく)した私たちは、煩悩・業・苦の三道を、法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳と転(てん)じ、現当(げんとう)二世(にせ)の功徳を成就(じょうじゅ)させていただけることを深く報恩謝徳(しゃとく)しなければなりません。
 日寛上人は、
 「邪法を退治するは即ちこれ報恩(中略)正法を弘通するは即ち是(こ)れ謝徳(中略)謂(い)わく、身命(しんみょう)を惜(お)しまず邪法を退治し、正法を弘通する、則ち一切の恩として報ぜざること莫(な)きが故(ゆえ)なり」(日寛上人御書文段 三八四n)
と御指南されています。地涌の眷属(けんぞく)たる日蓮正宗僧俗の真実の報恩行とは、まさに不惜(ふしゃく)身命(しんみょう)の信心をもって、破邪顕正(けんしょう)の折伏を実践するところにあると、自覚すべきです。

 折伏実践の心得
 唱題とは、三大秘法の本門の題目の実践であり、根本の行です。『三大秘法抄』に、
「日蓮が唱ふる所の題目は前代(ぜんだい)に異(こと)なり、自行化他(じぎょうけた)に亘(わた)りて南無妙法蓮華経なり」(御書 一五九四n)
とあるように、自行の唱題行に化他の折伏行が伴(ともな)わなければ本門の題目とはなりません。
 また、御法主(ごほっす)日顕上人猊下は、
 「毎日の題目受持(じゅじ)の功徳は、或(あ)る時には直(ただ)ちに罪障(ざいしょう)消滅(しょうめつ)の不可思議な現証となって顕(あらわ)れ、また次第に積(つも)って五尺(ごしゃく)の器(うつわ)に充満(じゅうまん)し、おのずから化他の徳となって外へ流れ出ます」(大白法 二七七号)
と御指南されています。
 末法の一切衆生は、客観的な機の上からは、本未有善(ほんみうぜん)の荒凡夫(あらぼんぶ)ですが、一方、自行化他にわたって唱題に励む日蓮正宗の僧俗は、その観心(かんじん)境界において地涌の菩薩の境界を開くことができるのです。
 そのためには、無疑日信(むぎわっしん)の信心を根本とした魔を断(た)ち切る強盛(ごうじょう)な唱題と、僧俗一致して異体同心(いたいどうしん)の唱題行を行うことが絶対の条件となるのです。
 また折伏において大切なことは、御本尊以外に幸せになる法は絶対にない、との大確信をもって人々に強く訴(うった)えていくことです。
 ただし、決して非常識や感情的な言動になってはなりません。心がけるべきことは、
 「彼(かれ)が為(ため)に悪を除(のぞ)くは、即ち是(これ)彼が親(おや)なり」(御書 五七七n)
と仰せのように、謗法に対して、傍観者的(ぼうかんしゃてき)姿勢であったり、勧誘的(かんゆうてき)な弱い折伏であってはいけないということです。邪宗教こそが人を不幸にし、国家を危(あや)うくする元凶(げんきょう)であることを言い切り、一切の謗法を破折(はしゃく)し、屈伏(くっぷく)せしめる威勢(いせい)が大切なのです。
 また相手が無信仰であったとしても、正法に背(そむ)くばかりではなく、正法を知らないこと自体が、その人にとっては不幸の原因となるのですから、兎(と)にも角(かく)にも正法を説き聞かせることが本当の慈悲であり、折伏なのです。